空中散歩

ふわふわと空中を歩くように、好きなドラマや映画、アーティストなどについて書いています。

尾崎豊が亡くなった日

尾崎豊が亡くなった日。
1992年4月25日は土曜日だった。
 
もともと私はテレビで見る歌手の歌くらいしか聞かなかったが、転校した友人がある時カセットテープに入れて送ってくれたのが、尾崎豊の1枚目のアルバム『十七歳の地図』だった。
 
初めに声に惹かれた。なんて澄んだ綺麗な声なんだろう、と。
それから歌詞にのめり込んだ。

尾崎豊とほぼ同世代の私は尾崎の歌を貪るように聞いた。
当時の小遣いではレコードはなかなか買なかったが、件の友人がアルバムが出るたびにカセットテープを送ってくれた。
 
僕が僕であるために」「シェリー」「卒業」「存在」etc.

細胞に刻みつけるくらい聞いた尾崎の歌。

尾崎豊の歌は、ある意味家族や友人よりも身近で、私自身に近かった。
だから尾崎豊の死は、身近な人の死よりも大きな悲しみであり衝撃だった。
 


1992年は私の社会人一年目の年だ。
入社からやっと一か月経とうとするくらいの4月25日。
仕事は午前中だけ、いわゆる半ドンだった。
だが仕事に就いたのが初めてだった私は、この頃、精神的にも肉体的にもとても疲れていた。

仕事帰りのバス停は繁華街にあって乗降が多い。バス停の歩道には鳩がいた。
あの日も何羽かの鳩が歩道に降りて、地面の虫か何かをしきりに啄んでいた。
その中に明らかに痩せて弱った鳩が居た。
 
ひっきりなしにバスがやってくる停留所で、バスが近づくたびに他の鳩は歩道から飛び上がるが、痩せた鳩はよたよたと歩いたまま、そのうち車道に出てしまった。バスを待っていた人間は多分「危ないな」と思いながら見ていたはずだ。なんとなく皆の視線はその鳩に向いていた。

バスがやってきた。
鳩はうまく車体の下に入り込んだ。ほっとした矢先、乗降が終わって発車したバスの後輪が鳩を轢いた。
 
こうなりそうだとわかっていたが、誰も何もできなかった。
無残な鳩の姿に、なんとかしてやりたかったがどうしていいかもわからなかった。
その時、同じくバスを待っていた若い女性が車道に出て、鳩にハンカチを掛けてやった。
交通量の多いバス停でできる、唯一の弔いだった。
 
私と幾つも違わない筈の女性の行動に、何故自分にはそれができなかったか考えながら、ただでさえ疲れて憂鬱な気分だったところに、さらに重苦しい気分まで引きずって、やってきたバスに乗った。

帰宅してからも沈鬱な気分は消えず、歩いて二十分くらいの公園まで散歩した。山の頂上にある静かな公園で、人はほとんどいない。公園と言っても遊具があるわけではなく、眼下に街の風景が一望できる、ちょっとした展望台のようなものがある原っぱだった。

街を見下ろしても気分は良くならず、何気なく目を落とした地面ではアリが巣作りをしていた。
穴の周囲に小さく丸められた土の団子が積み上がっている。
中から同じくらいの大きさの土団子をひとつづつ頭の上に抱えたアリが、次々に穴の入り口に団子を積み上げていた。
一匹がひとつづつ、ひたすら中から外へ土を出す。
 
一匹で二つ三つも団子を抱えるアリはいない。
極端に大きな団子や、小さな団子を抱えているアリもいない。
「抱えられる仕事の量は一人ひとつ」
「無理に大きなものを抱えたりせず、ちょうどよい量だけ抱える」
「アリのように淡々と自分の役目を果たす」
アリを見ながら、自分の仕事に当てはめてみたりした。
そんなふうにぼんやりと時間を過ごしてから帰宅した。

疲れて疲れて、部屋でラジオをつけて横になった。
一時間くらい眠っただろうか。
尾崎豊」「亡くなった」という言葉が聞こえた。
途端に意識がはっきりして飛び起きた。
「え?!何?!」という驚きと衝撃と、なぜか「やっぱり・・・」という思いがわずかによぎった。
覚えている1992年4月25日はここまでだ。
 

それからしばらくはテレビや新聞が「尾崎豊」を特集した。
「教祖」「カリスマ」「十代の代弁者」そんな言葉が飛び交った。
どれもしっくりとこない、「大人」の言葉だと思った。

テレビは尾崎の死を伝えるたびに、リリースが近かった6枚目のアルバム『放熱への証』の一曲「太陽の瞳」を繰り返し流した。

「太陽の瞳」の歌詞は苦しくて寂しくて悲しい。
 
” こんな仕事は 早く終わらせてしまいたい
 まるでぼくを殺すために 働くようだ
 それでなければ 自由を求める
 籠の中に閉じ込められてる 罪も現実も消えてしまえばいい
 僕はたった一人だ 見知らぬ人々が
 僕の知らない僕を見てる ”
 
 
叫びではない。
誰かに語りかけるのでもない。
疲れ果てた人間の限界に達した心から吐き出された呟きのようだ。
 
尾崎の死と当時の自分の状況も加わって、この曲を聞くと心がぐずぐずと崩れてしまいそうになる。
だから未だにこの曲だけは、一曲通して聞くことが出来ない。
 
 

尾崎の死後に読んだ写真詩集「白紙の散乱」の最後、「成就」と題された短い詩、
「逃れようのない 凡庸なる人間の姿は全てである」に泣いた。

どんな解釈が正しいのかはわからないが、その時私には「何の才能も無い、普通の人間が苦しんでのたうち回っている姿こそが、生きるということの全てだ」と言っているように思えた。
「のたうち回っていることが『生』の成就」だとしたら、人生は辛くて苦しい。それが尾崎の『生』だったのだろうか。
この短い詩の意味を今も繰り返し考えている。
 
 

私自身の体験とリンクしてしまった為に、26年経った今でも、あの日が生々しく思い出される。
尾崎豊の歌は私の中に生きているが、あの日は今でも思い出すたびに苦しい。
 
私の一部は尾崎豊の歌で出来ている。
 
 
でも、生きていて欲しかった。
 
 
尾崎豊が亡くなってから、好きなミュージシャンや俳優の中に、やはり早くに亡くなった人たちがいる。
X JAPANのHIDE、TAIJI・・・
他にも、違う分野にも。
ファンの衝撃と悲しみはいつも深い。
 
 
アーティスト、俳優、作家・・・表現者と言われる人、創作者と言われる人。
 
ファンとして、好きな人にはいつでも輝いていて欲しい。
第一線を走り続けて欲しい。
 
でも、それよりも何よりも願うことは、ただ生きていて欲しい。元気でいて欲しい。
本人たちの願いとは違っていたとしても、私はただそれを願っている。
 
 
尾崎豊の亡くなった日には、尾崎への思いとともに、そう願う。